小倉藩に所縁の主な武将・武士
小倉細川藩初代藩主
細川忠興
丹後国宮津城主、小倉細川藩初代藩主。肥後細川家初代。細川藤孝(幽斎)を父に持つ戦国武将。足利、織田、豊臣、徳川に仕え、関ヶ原の合戦では136の首級を挙げた武功により、豊前国小倉藩初代藩主となる。
溺愛したと言われる正室は戦国一の美人と称された、明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)。千利休の高弟「利休七哲」としても知られる茶人。全国初の唐造りの天守を建てるなど、風流なもの、お洒落なものを好んだと言われる。
世界に知られる剣豪
宮本武蔵
16歳から29歳、最後の戦い「巌流島の決闘」まで60余回の勝負全てに勝利。生涯で最も長い時間(約8年)を過ごしたのが小倉。
「吾家は小笠原家に遺し、吾技は細川家に遺す」と語ったと言われ、小倉藩を治めた細川家・小笠原家との関係が深いことが伺える。元宮本家の領地手向山には武蔵の墓石とも言われる4.5mの顕彰碑が建ち、小倉の地には宮本家、二天一流が受け継がれている。
小倉藩剣術師範
佐々木小次郎(巌流)
巌流島の決闘で有名であるが、詳しいことがほとんど分かっていないミステリアスな剣豪。細川忠興公に見出され、小倉藩の剣術師範を務める。
宮本武蔵との決闘で敗れ、闘った舟島は彼の流派の名前を取り「巌流島」と呼ばれるようになる。「物干し竿」と称される長刀を用いた「燕返し」の技で知られる。
小倉小笠原藩初代藩主
小笠原忠真
信濃国松本藩の第2代藩主、播磨国明石藩主、小倉小笠原藩の初代藩主。織田信長と徳川家康のひ孫にあたる「戦国のサラブレッド」。その勇猛な戦いぶりから家康公より「鬼孫」と称された。
譜代大名として西国・九州のお目付役として、細川家に代わり小倉の地に入封。小倉の地に名門の武家文化をもたらす。茶人としても知られ小笠原家茶道古流を興す。糠漬けを好み、小倉の郷土料理「糠だき」は今も地元に愛されている。
小倉藩筆頭家老、宮本武蔵の養子
宮本伊織
小倉小笠原家の筆頭家老で、続く宮本家は幕末まで筆頭家老職を務める。15歳で小笠原家に仕官し、20歳で家老となる超優秀な武士。島原の乱では侍大将を務め、三代将軍・徳川家光からも一目を置かれる存在であり、その有能ぶりには目を見張るものがある。
細川忠興正室、明智光秀の娘
細川ガラシャ
細川忠興の正室。明智光秀の三女として生まれ、名前は玉(玉子・珠とも)。織田信長の命により細川忠興に嫁ぐ。戦国一の美人とも言われ、忠興からの寵愛を受けるも、本能寺の変により人生が大きく変わる。
キリシタンの洗礼を受け、細川ガラシャ(ガラシア)として知られる。関ヶ原の合戦前、西軍の人質になることを拒み命を絶つ。
筑前国福岡藩初代藩主
黒田長政
関ヶ原の合戦において、細川忠興と共に東軍で参戦。関ヶ原一の戦功を挙げ、初代福岡藩主となる。細川家と黒田家は元々良い関係であったが、関ヶ原の戦い以後、ある事件から忠興、長政は犬猿の仲となる。
佐々木小次郎 一番弟子
山岡信勝
師匠である佐々木小次郎と家老岩間八兵衛との間で揺れ動く、若き剣士。
細川忠興茶湯の師匠
千利休
織田信長や豊臣秀吉の茶の指南役として名を馳せた茶人。
茶の湯の精神を深め、茶会の形式を定めるなど、今日に至る日本の茶道を完成。全国に多くの弟子をもち、当代きっての優秀な弟子7人は『利休七哲』と呼ばれ、細川忠興もその一人。